2011年3月11日、私は単身赴任先の愛知県の研究施設・実験フロアで仕事をしていた。
仕事をしている実験フロアは間仕切りもなくコンクリート打ち放しで配管設備なども剥き出したまま、それでいて広いから空調設備もほとんど意味をなしていないので、冬場は仕事で頭を悩ませている時間より寒さと戦っている時間のほうが長いくらいだ。
15時のお情け程度の休憩時間を前にそれは起こった。
天井から吊るされた配管設備が今にも落ちるぞといわんばかりにきしむ音を共鳴し続け、身の危険を感じ仲間等とともに机の下に潜り込み、机の脚にしがみつく、キャスター付きの椅子は生きているかのように右往左往する。
机の脚を握った手のひらがうっすらと発汗しはじめた時にその揺れは収まった。
揺れが収まり、仲間とともにどこでどの規模の地震が起きたのかの情報収集合戦が始まるも社内ネットワークから外部へはアクセスが集中してほぼ不通状態、そんな状態のなかで最新情報が人づてに伝わってくる。
震源地は宮城県沖、地震の規模はマグニチュード9.0、最大震度は宮城県栗原市の震度7。
神奈川の自宅に携帯から電話するもなかなか繋がらないし、神奈川の状況を得るにもあいかわらずインターネットは繋がりにくい状態、震源地から遠く離れた愛知でさえ相当の揺れだったのだから、愛知よりはるかに震源地に近い神奈川の家族が気になって仕事なんてやってる場合じゃなかった。
やっと携帯電話が繋がったのは地震発生から1時間以上経過してから、「もう終わるのかと思った」という妻の言葉を今でも思いだす。
震源地から離れた神奈川でさえもそんな状態だった。
幸いにも家族も家も大きな被害はなく、社宅に戻った後に同じく神奈川にある実家に連絡するも大きな被害はなかったこと胸をなでおろした。
月2回の割合で神奈川の自宅に戻っていて、その週は戻る週に該当していたのだが、交通機関がどうなるか解らないこともあり、その週は週末を名古屋市内にある社宅で過ごした。
そして土日の二日間、東日本大震災という未曾有の災害を映像で直視し続けた。
2020年3月11日、東日本大震災から9年の歳月がながれていた。
2019年に中国・武漢で発生した『新型コロナウイルス』は日本にも広がりはじめ、横浜港に入港したクルーズ船『ダイヤモンド・プリンセス』の集団感染のニュースに不安を募らせた。
2021年3月11日、メディアはことさら節目を強調して満10年にあたる今年、東日本大震災から10年といった特番を制作・編成している。
10年の間に報道されないがゆえに知らなかったことも振り返りで知ることができ、当事者にとっては振り返りたくない過去であるかもしれないけど、生きているものは同じようなことが起きたときにどうやって回避していくか考え直す機会でもある。
天災はいつ起きるか解らない、起きることを完全に予測できたとしても、天災を防げるわけもなく、いかに二次災害を防ぐための時間にしかならない。
東日本大震災という天災によって多くの人が大事な物を失い、大事な者を失い、忘れられない想いを背負った。
2021年3月11日、首都三県はいまだ緊急事態宣言下にある。
東日本大震災と新型コロナウイルスは違う、東日本大震災による死者・行方不明者の数はおよそ22,000人
2021年3月9現在のWHO発表資料による日本国内の新型コロナウイルスによる死者は8、227人、全世界では2、582、528人。
日本国内に限ればワクチン接種、治療薬開発が進む中で新型コロナウイルスを起因とした死者数が東日本大震災の死者・行方不明者を超えることはないだろう。
それでも2021年3月9日時点で新型コロナウイルスによる日本国内の死者は8,227人、東日本大震災によって失くしたもの、新型コロナウイルスによって失くしたもの。
東日本大震災では守りたくても守れなかったものはあっても、新型コロナウイルスで守れたものはたくさんあると思います。
人は大自然の前では無力ですが、欲求の前にも無力なんですかね。