世の中で『治部』で思い浮かべるものって何ですかね?
私は沢山の歴史物を読んできていることもあり『治部』といえば『石田三成』一択になるんですけど、歴史に興味がない大人は『治部煮』かな?
『石田三成』=『治部』というのが歴史好きな人には当たり前過ぎるのですが、正しくは『石田三成』が任官された官位で『従五位下・治部少輔』のことです。
『石田三成』以外で『治部』を任官している有名なところでは放送再開が待ち遠しい『麒麟がくる』で一時休止となった回で『桶狭間』で散った『今川義元』が『治部大輔』で『治部少輔』よりは格上なんですけど『治部』といえば『石田三成』ですね。
ちなみに『治部煮』は金沢の郷土料理で安土桃山時代頃に始まるといわれていますが『石田三成』とは一切関係ございません。
本題に入ります。『吉川永青』の『治部の礎』は『治部』こと『石田三成』を主人公とした長編歴史小説です。
近年になり『石田三成』の評価はだいぶ変わってきています。といっても若い世代は悪いイメージの『石田三成』を知らないわけだから、そのギャップを感じることはないと思いますけど。
ちょっと前に『吉川永青』の『裏関ケ原』を読んでからというもの、けっこう気になる作家さんになっていて『治部の礎』以外にも興味深い作品は数多あるのですが、とりあえずと言っては語弊がありますが、近年では再評価されてきている『石田三成』をどういう風に描いているのかという興味もあり『治部の礎』をチョイスしました。
まだまだ歴史小説に今ほどの興味を持ってなかった子供の頃に『山岡荘八』の『徳川家康』がビジネス本としても脚光を浴び、大ベストセラーとなっていたことは朧気ながら覚えています、ゆえに世間一般には『徳川家康』の評価は高かったと思います。
一方で『石田三成』に関しては『関ヶ原合戦』の事実上の西軍大将で敗軍の将、まぁ日本史の教科書程度でしか知っていませんでしたし、世間での『徳川家康』の評価が高ければ高いほど『石田三成』の評価は低かったと思います。
事実石田三成を主題とした書籍の多くは1980年代以降に多く発表されており、1980年代以前となるとウィキペディアで確認する限りは以下くらいです。
篝火(1941年):尾崎士郎
史伝石田三成(1976年):安藤英男
※『石田三成』好きの私は『尾崎史郎』の二作品は既読です。
私はというと歴史(日本史)小説に興味を持ち読み始めたのが1990年前後くらいなので『石田三成』を蔑ずむこと一辺倒の書籍を見たことがありません、そもそもそういうものがあったのか知らないし、『石田三成』と私怨により敵対した豊臣家武断派『加藤清正』や『福島正則』を主題としたものは発表された作品も少なくてあまり読んでいないからかもしれませんけど。
ですから個人の思考であったり、判官贔屓てきなこともあり好き嫌いででいうと『石田三成』>『徳川家康』になっているのですが、その思考部分で重きをなすのが、やはり『豊臣家』のため『義』を全うした『石田三成』に魅力を感じてしまいます。
物語としては以下の四章から構成されており、もちろん『関ヶ原合戦』についても書かれています、これについては多くの作家がすでに書いてますし、私も多くの作品を読んでますから、ちょっと淡泊に感じるところもありますが、それほど読んでいない人には丁度良い加減かもしれません。
- 第一章 天下
- 第二章 決意
- 第三章 混迷
- 第四章 決戦
世間一般が『石田三成』に抱くイメージってたぶんこんな感じだと思っています。
- 生真面目
- 戦下手
- 横柄
- 佞臣
- 忠臣
上の『佞臣』などは江戸時代に編纂された書物によるところが多いのであてになりませんが、だいたいこんな感じだと思いますけど『戦下手』に関しても『関ヶ原合戦』は規模が大き過ぎるので置いといて、最近たまたま目にしたある人のコラム(リンクはありません)で戦下手の裏付けを『のぼうの城』で有名となった秀吉の小田原征伐時の『忍城の戦い』を根拠としていることにちょっと驚きましたし、これも『のぼうの城』の影響が大きいのだとは思いますけど。
『忍城の戦い』における『水攻め』は『石田三成』が『豊臣秀吉』の『備中高松城』の『水攻め』を模倣したと言われてきましたが、『忍城』の『水攻め』は『石田三成』の案でなく『豊臣秀吉』の命令であったことは『大日本古文書 浅野家文書』において確認出来ます(ウィキペディアにも記載されています)。
出典:大日本古文書. 家わけ第2 (浅野家文書) - 国立国会図書館デジタルコレクション
なぜ『忍城の戦い』について説明をしたかというと『治部の礎』は『備中高松城』の水攻めから物語が始まり、三成の水攻めにたいする考えが作者の三成評、三成愛が感じられるとともに、それがあくまで作者による創作であったとしても『石田三成』が目指した社会が垣間見えたからです。
「この戦に勝って水を抜いたら・・・・・・。高松城下は一面、泥濘の荒地になるだろう。今年の米も取れず、元に戻すのに何年かかることか。百姓衆とて今は米と銭をもらって浮かれておるが、その時が来れば嘆くに違いない」
『治部の礎』で描かれる『石田三成』は上の引用文に凝縮されていると思いますし、きっと実際の『石田三成』もこういう物の考え方が出来る人物だったであろうと改めて思いました。
秀吉の『備中高松城』の水攻めは多くの血を流すことなく城主『清水宗治』の切腹により戦いは終わります。
その後、秀吉は『中国の大返し』から『山崎の戦』で『明智光秀』を討つということもあってか兵を損なわなかった『備中高松城』の水攻めは概ね評価されていますが、引用した三成の言葉は作者の創作であっても『百姓衆は今は米と銭をもらって浮かれておるが』としていますが、その中には丹精込めた田畑を水浸しにされ途方にくれている民もたくさんいるでしょうし、三成の所領における治世や居城佐和山城が質素であったことなどを考えると三成の言葉もあながち創作とも思えなくなります。
いつも通りでレビューと呼べるようなものじゃありませんけど、前述した通り『治部の礎』は引用した文に凝縮されていると思います。
ただ、作者の『石田三成』への愛情が溢れすぎていることもあり、ちょっと食傷気味になってしまうかもしれませんが読む価値はあると思います。
保身や己の欲望のために目の前のことを見るだけじゃなく、上に立つ者ならば先を見る目を政治家にも財界のお偉いさんにも持って欲しいものですねと最後に愚痴ってみた(笑)